神奈核ニュース No.1(1996.7) 目次


神奈核ニュース創刊東海大学病院村上 剛
「神奈核ニュース」原稿募集
第1回教育訓練終了
A.H.Becquerelによる
   放射性物質発見のル−ツ
川崎市立井田病院
   放射線部
長谷川 武
ベクレルの放射能発見100年に寄せて神奈川県立厚木病院中村 豊
祝 放射能発見100周年
ベクレルさんウラン塩から放射能の発見
東海大学医学部付属病院
   核医学
福田 利雄


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神奈核ニュース創刊
東海大学病院
村上 剛


 「神奈核ニュース」創刊号を発刊しました。神奈川核医学研究会では、従来より「神奈川核医学研究会誌」を刊行してきました。この会誌は約20年も以前に創刊され、現在、第10巻まで刊行されています。当初は、年1回程度刊行されておりました。しかし、研究会の変遷とともに、しばらくの間、刊行されなくなりましたが、数年前より、何か行事とともに刊行するという不定期的な刊行物として、生まれ変わりました。本来は、年1回でも定期的に刊行するべきだと考えていますが、刊行するには、原稿集め、資金集めなどが大変です。常任幹事の力不足の言い訳になりますが、執筆者や協賛メーカーに迷惑をかけながら無理をして刊行しても、長続きしないような気がします。そこで、交換条件ではないのですが、「神奈核ニュース」を創刊することにしました。「神奈核ニュース」では、その時折のタイムリーな情報を提供していきたいと思っています。また、お金をかけないことも研究会の運営には重要なことです。そこで、印刷や製本をプロに任せるのではなく、我々の手で編集しコピーをとって、これに替えることにしました。したがって、出来上がりは、決して美しいもではありませんし、誤植も目立つかも知れません。研究会の経済的な状況をご理解いただき、ご容赦くださいますようお願いいたします。
 さて、創刊号は、ベクレルの放射能発見100年の特集としました。昨年は、レントゲンのX線発見100年にあたり、数々の雑誌でその功績がたたえられ、各地でその記念行事が執り行われました。しかし、ベクレルの放射能発見100年については、あまりお目にかかりません。そこで、神奈川核医学研究会では、なんとしても今年中に、この功績をたたえ、記録と記憶にとどめておかなければと、「神奈核ニュース」の創刊号をベクレルの放射能発見100年の特集で飾ることにしました。
 これからの「神奈核ニュース」は、定例研究会での講演記録を中心に、いろいろな内容に取り組みたいと思っています。正直なところ、まだ、どのようなものになるかは編集委員もわかっていません。発行回数は、年4回程度を予定しておりますが、皆様からの「神奈核ニュースの発行日はいつ?」というような声がなければ、忙しさにかまけて発行間隔が開きそうです。とにかく、「神奈核ニュース」は研究会皆様の広報誌です。研究会会員一同で、末永く、立派なものに育てていきたいと思っています。
 また、「神奈川核医学研究会誌」のほうも中止したわけではなく、今までどおり、何かの折には刊行するつもりでいます。「神奈核ニュース」の内容と、多少ダブる所があるかと思いますが、「神奈川核医学研究会誌」は、学術的な内容を中心にと考えております。
 研究会に対するご意見とともに、「神奈核ニュース」「神奈川核医学研究会誌」に対するご意見も研究会幹事あてにいただければ幸いです。



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「神奈核ニュース」原稿募集

 「神奈核ニュース」では、広く皆様からの投稿をお願いしております。原稿内容は、何でもかまいません。純粋に学術的な内容のものから、雑感や、日常臨床でのちょっとした工夫などもありがたい原稿です。さらに、売ります・買います、あげます・ください、などのタウン誌みたいな内容でも結構です。また、質問などにも、適切な回答者にお願いしてお答えしたいと思います。
 原稿以外でも、こんな特集を組んで欲しいとか、こんな紙面作りをして欲しいとかいったご意見、ご要望も待っております。遠慮なくお申し付けください。
 原稿についてですが、写真や図表を入れていただいても構いません。ただし、印刷ではなく、コピーですので、きれいには仕上がらないことをご承知おきください。また、数号に1回は、カラーコピーを利用することも考えておりますので、ぜひ、カラーで作って欲しいというご希望があれば、遠慮なくお申し付けください。
 なお、勝手なお願いで恐縮ですが、原稿を保存したフロッピーディスクをいただければ編集の都合上非常にありがたく存じます。フロッピーのフォーマットは、MSDOS(Windows)で、Text形式で保存したものが理想です。もちろん、Macで保存したものでも構いませんし、また、Rupoなどのワープロで書かれたものでも結構です。ご面倒ですがよろしくお願いいたします。
 最後に、常任幹事から原稿執筆のお願いがありましたら、快くお引き受けくださいますようお願いいたします。



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第1回教育訓練終了

 去る、平成8年4月22日に、神奈川核医学研究会主催の放射線業務従事者等の教育訓練としての講習会が、多数の参加者を集め、県政総合センターにて開催されました。教育訓練は、本来は院内で行うべきもので、今回の講習がその一部に代えることができる(?)というもので、神奈川核医学研究会では初めての試みでした。放射線障害防止に関する法令として長谷川武、藤尾英夫両先生、RIの取り扱いについてとして奥山康男先生、放射線の人体に与える影響についてとして中村豊先生の講演がありました。難しい内容にも関わらず、参加者は熱心に聞き入っていました。さらに、講習修了者には、後ほど、額に入れて飾っておきたいほど立派な受講修了証が渡されました。
 講習会の内容は、参加できなかった方のために、講師の方々にお願いをして抄録集としてまとめることにしました。この抄録集は、「神奈核ニュース」の第2号に掲載する予定であります。また、この抄録集は、参加された方にも、永久保存版の資料として役立つものになると思います。
 この企画は、今後も、年1回程度行っていきたいと思っています。次回は、こうして欲しい、ああして欲しい、というご意見がございましたら、常任幹事までお声をおかけください。



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A.H.Becquerelによる
   放射性物質発見のル−ツ

川崎市立井田病院 放射線部
長谷川 武


はじめに
 フランスのパリ工科大学物理学教授であったアントアーヌ・アンリ・ベックレルAntanu Henrie Becquerelによって、1896年3月2日に放射性物質が発見されました。1996年の今年は放射能発見100周年の節目の年であり、X線の発見同様、放射能の発見は人類史上最大発見の一つとして称賛される。しかし、W.C.RoentgenのX線発見100周年記念ほどの盛り上がりはないように見えるが、記念の年に、核医学診療に携わる者として、改めて放射性物質発見のルーツを探って見ることはそれなりの意義があるであろう。
フランス科学アカデミーの例会
 「偶然にも、写真乾板の上に十字架型の文鎮を置き、さらに重しが必要だったので、ウラン化合物の結晶を乗せて引き出しに入れておいた。その写真乾板を現像したところ、乾板に十字架がはっきりと写っていることを発見した。」と、ある資料には書かれている。
 この偶然との出会いで研究が進められ、ウラン化合物から何か不思議な光線が出ており、写真作用や蛍光作用および空気を電気の伝導体にする電離作用などがあることを知ったのです。この現象については、数か月前に発見された、X線の性質によく似ていることに気付いたのです。それは、W.C.RoentgenのX線発見は1896.12.8であり、ヴィルツブルグ物理医学協会の協会年報に発表したのは12月28日でした。また、年報は1896年1月1日に刷り上がり、別刷りとともにW.C.Roentgenの元に届けられています。W.C.Roentgenはその別刷りをいくつかのX線写真(夫人の手、木箱の中の分銅、方向磁石など)と一緒に、優れた科学者のもとへ新年の賀詞を添えて郵送しています。それに対するお礼と画期的な発見を称賛する手紙をくれた科学者の中に、フランスアカデミー会員の数学者アンリ・ポアンカレHenri Poincareがいました。この人が放射能発見を導く結果となっているのです。
 Henri Poincareは、フランス科学アカデミーの例会において、W.C.Roentgenから送ってきた新しい発見の資料を回覧しているのです。ところが、この会に出席していたAntanu Henrie Becquerelは、蛍光の研究に打ち込んでいたので、その発見に異常な興味を示しています。
蛍光の研究が効をなす
 蛍光と放射線との間に、ある物理学的な関係があるのではと考え、放射能発見のきっかけ(ひらめき)を掴むことが出来たのです。
 蛍光とは、原子が放射線からエネルギーを得て、そのエネルギーに比例してある時間の間発光する現象をいいますので、この時の興奮ぶりが伝わって来るような気がします。
 Becquerelは蛍光物質から、放射線ひょっとしたらX線が出てくるのではと考え実験を開始したのですが、最初の実験は失敗に終わっています。次いでウラン塩で試みて初めて放射線を証明することができたのです。それは、黒紙に包んだ写真乾板をウラン塩の下に置き、日光に当てて、乾板を現像してみると感光していたのです。だが、発見を更に立証するために屋外での実験を計画したが日中太陽が出ない日が続いたために、用意していた材料を机の引き出しに入れて保管しました。パリの空はなかなか太陽が顔を出さないため、我慢しきれなくなって数日後に乾板を現像して見たのです。
 その結果は、日光を当てたと同じ位に黒化が乾板に見られたのです。この時に、Roentgenの技術で作り出した電磁波放射線とは違った、自然放射能と呼べる何かを発見したのです。更に、彼の放射線は気体を電離し、写真乾板を感光させることを突き止めました。また、比較的簡単な方法で放射能の強さを測定できることを見出だしています。
 これらのことは、Hans Weinberger著の「放射線防護の父 シーベルトの生涯」に記されている。
 特別な装置もなく、ウラン化合物から何か不思議な線が出ていることを確認し、X線とは違うものとして、「ベクレル線」と名称をつけて物理学会誌に発表しました。
放射能という言葉
 今からすれば、放射性物質のウラン化合物から出る放射線であったわけです。いわゆる、ウラン鉱石から「放射能」を発見したのです。
 しかし、この放射能の言葉は、次の1898年のポロニウムとラジウムの発見後に出てきた言葉なのです。Marie CurieとPierre Curieの夫妻はソルボンヌ大学での研究で、Antanu Henrie Becquerelの論文に興味をひき、ベクレル線を出す物質をウラン鉱物であるピッチブレンドから化学的に分離しました。A.H.Becquerelが用いたウラン化合物より感光作用が4倍も強い、放射能を持った未知の物質でした。そして、この未知の物質は2種類の混合物であることをつきとめたのです。1898年7月にA.H.Becquerelが用いた化合物の400倍も感光作用が強い、元素ポロニウムを発見し、続いて同じ年の12月には、ウラン化合物の250万倍も感光作用の強い、元素ラジウムを発見しています。
 この「放射能」の言葉は、キュリー夫人によって1898年に感光作用・電離作用・蛍光作用を示す能力に対し、初めて「放射能」、それから出るものを「放射線」と呼ぶことにしました。それはMarie Curieの実験でウランの放射性の性質(放射能)を立証し、新しい現象を放射能と名付けることを提案したのです。
世紀の大発見の貢献が放射能の単位に
 天然の元素が放射能をもつという不思議な性質に加え、その原子核からたえず目に見えない強い放射線を出し続けている事実を知ったことは、実に世紀の大発見だったのです。
 第一回のノーベル物理学賞は、1901年にW.C.Roentgenの「X線の画期的な発見」に対し授与されましたが、その2年後の1903年には、放射性物質の発見でフランスの物理学者Antanu Henrie Becquerelと、ポロニウム・ラジウムの発見でCurie 夫妻がともにノーベル物理学賞を受賞しました。
 かっては、放射線の単位に(R)Roentgenや(Ci)Curieが使われていましたが、放射線関係のSI単位は1960年に国際度量衡総会(CGPM)で勧告され、1969年に国際標準化機構(ISO)で採用が決まりました。1979年SI単位に含まれる放射能の単位に、(Bq)Becquerelという名称が採用されたのです。
 自分の名前が単位名になったことは、科学者にとりこれ以上の名誉はないでしょう。
参考資料
1)Hans Weinberger著、山崎岐男訳:Sievert:enhet och mangfald シーベルトの生涯、考古堂書店,1994.2.10
2)山崎岐男著:孤高の科学者W.C.レントゲン、医療科学社,1995.11.8
3)放射線のはなし(改訂第4版)、(財)日本原子力文化振興財団,1990.7.



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ベクレルの放射能発見100年に寄せて
神奈川県立厚木病院
中村 豊


 Antoine-Henri Becquerel(1852-1908)は1895年11月にレントゲン博士がX線を発見したことに刺激され、X線に似た放射線の発見を追及していた。1896年3月1日、蛍光物質のウラン塩類と一緒に机の引出しに数日間忘れていた写真乾板を現像して、ウラン化合物が黒い紙に包まれた写真乾板に作用することを発見した。これが放射能による世界最初のオートラジオグラフである。ベクレルはこの発見をフランス科学アカデミーに報告し、10日後に「On visible radiations emitted by phosphorescent bodies」と題した論文にした。ベクレルはこの現象はウラン化合物から黒い紙を透過する特別な性質を持つ放射線が出て、乾板に感光するのだと考えた。また、この放射線はX線と同様に周囲の空気を電離し、帯電した検電器を放電させる性質のあることも見いだした。
 Marie Curie(1867-1934)はこの新現象について研究し、ウランから出る放射線の強さは化合物に含まれるウランの量に比例することを見いだした。また、ウラン以外の元素からも同様な放射線を出すのではないかと考え、多数の物質を調べ、トリウム化合物からも類似の放射線を出すことを見いだした。(1898)キュリーはこの性質に対して「放射能」と名付け、放射能をもつ元素に「放射性元素」という名前を与えた。さらにPierとMarie Curie夫妻は同一量ウランよりも100万倍も強い放射線を出すラジウムを発見した。(1889)この後、ラザフォードやソディが放射性元素の崩壊説を提出し、「崩壊常数」「平均寿命」「半減期」などが見出された。そしてプランク、ニールス・ボア、ド・ブロイ、シュレーディンガー、ハイセンベルグ、アインシュタインと原子物理学、量子物理学の幕開けの時代へと続いた。
 今から100年前に発見された放射能についてよい機会であるので、基本的なことについて、少し復習してみよう。
 放射性同位元素の放射能はそれが崩壊する割合で定義される。放射性崩壊の基本式はdN/dt=-λNである。歴史的な放射能の単位はキュリー(Ci)であり、これはちょうど3.7*1010崩壊/秒である。もともとこの値は1grの純粋なRa-226の放射能である。1975年の国際度量衡総会(GCPM)で、1秒当たり1崩壊で定義されるベクレル単位を放射能の標準単位とする案が採択された。このSI単位系の全面的な採用はわが国では1989年であった。
 線源の崩壊率で表す放射能はその崩壊で発生する放射線の放出とは同義ではない。崩壊が起こっても、そのうちのある割合でしか放射線が放出されないことがある。崩壊当たりの放射線放出率を求めるには、その同位元素の崩壊図式(decay shema)の知識が必要である。またある放射性同位元素の崩壊で放射性娘核が生成され、その娘核の放射能がさらに放射線収率に寄与することがあり、崩壊図式は手元に置いておきたい。崩壊図式は「Tables of Isotopes,7th Ed」(C.M.Lederer and Wiley interscience,New York,1978)に収録されている。放射線崩壊はランダムな過程である。したがって、核崩壊で放出される放射線の測定は程度の差はあれ、統計的変動を受ける。すべての放射線測定ではこのような固有な変動は避けることはできない。不確かさの源になり、これが不正確さすなわち誤差の原因となる。
 放射性同位元素の比放射能は単位質量の放射能で定義される。もし他の原子核がまったく混合していない純粋な無担体試料ならば、その比放射能=放射能/質量=λ・Av/M(Mは試料の分子量、Avはアボガドロ数、λは崩壊常数)である。一般に半減期T(時間)、質量数Mの無担体の放射性核種1MBqの質量W(g)はW=8.62*10-15*T*Mと表され、半減期と質量数のみで決定される。ちなみにTc-99m 1MBqは5.135*10-12grである。
 放射能と照射線量率との関係については、一般に放射能の単位と照射線量率の単位を関係づける方法はないが、放射性同位元素の崩壊形式と放出されるγ線のエネルギーおよび距離が決まれば求めることができる。γ線源1MBqについて1m離れた点での線量率(uGy/hr)を求めておくとγ線を放出する核種の量の決定や遮へい計算の際に便利である。これを照射線量率定数と呼んでいる。また放射線防護の目的では、γ線1MBqについて1m離れた点での1cm線量当量率(uSv/hr)を知ると外部被曝実効線量当量の推定などに便利である。これを1cm線量当量率定数という。単位はuSv・m2/MBq・hrである。いずれもアイソトープ協会発行のアイソトープ手帳に掲載されている。
 ベクレルの放射能発見100年を迎えて、感謝の意を込めて、放射能を利用する際の基礎的なことを復習した。放射能単位ベクレルを使って7年目になるが、未だ旧単位キュリーの37から解放されていない。以前、放医研の館野先生が「ベクレルと丸くつき合う」ことを提唱されていた。ICRP60(1990年勧告)を受けたIAEA・BSS-9の拘束値にも100MBq,200MBqの記載がある。我々も早くベクレル単位に脱皮しなければならない。
 最後に、このベクレルの放射能発見100年の企画を立てた幹事の皆様、あわせて私の古い参考書のスス払いができたことに感謝する。



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祝 放射能発見100周年
ベクレルさんウラン塩から放射能の発見

東海大学医学部付属病院 核医学
福田 利雄


 昨年は、ドイツのレントゲンによりX線が発見されて100周年を迎え、全世界で記念行事が盛大に行われた。1896年、フランスのベクレル(Henri Becquerel)によるウラン塩から放射能を発見して、今年は100周年を迎えるが、それを祝う規模は小さいものにならざるを得ない。ベクレルの放射能の発見当時、レントゲンのX線発見に匹敵するものとは思われず、X線発見の時のような興奮を引き起こすこともなかったようである。科学者たちはX線についての議論に花を咲かせ、放射能の発見についての研究はベクレルに任せきりにしていた。 レントゲン強し・・・
 核医学診療に携わる者として、ベクレルがウラン塩から放射能を発見した当時のエピソードを紹介し、感謝の意をあらわしたい。
 レントゲンの第49番目の論文が、放射能の発見に結びついた事を皆さんはご存じだろうか。そして、レントゲンによるX線発見から僅か3ケ月後にアンリ・ベクレルにより放射能の発見がなされたのである。1896年、彼は、発見したX線に似た放射線をベクレル線と呼び、物質が放射線を出す性質を「放射能」と名付けた。その年にギリシャのアテネにて、第一回のオリンピックが開催されたが、現在の様にテレビ中継がある訳もなく、彼はせっせと研究を続けていたのである。そして、彼は放射線源としてウランにこだわりを持ち続けたため、放射能という科学の革命を大きく進める事ができなく、その座をキュリー夫妻に譲る事になった。
 しかしながら、RADIOISOTOPE HISTORYに大きな足跡を残した事は間違いない。
 以下に、アンリ・ベクレルによる放射能の発見に至る経緯、ベクレルの伝統的な家柄等を紹介する。また、尊敬と敬愛の意をこめて“ベクレルさん”と呼ぶことにする。
 時は、1896年1月、フランスの科学アカデミの例会において、ポアンカレにより、レントゲンから送られた初めてのX線写真が参加者に紹介された。ポアンカレはフランスの数学者であったが、レントゲンの友人であり、常に物理の基礎的な研究に深い関心を寄せていた。ベクレルさんが放射能を発見するきっかけを作った重要な人物といえる。
 ベクレルさんが「放電管のどの辺からその放射線が出てくるのか」と尋ねると、ポアンカレは、「陰極の反対側のガラスが蛍光を発するあたりらしい」と答えた。ベクレルさんは、X線と蛍光の間に何か関係があるのではないかという考えが、とっさに、ひらめきのように、浮かんだ。早速、翌日から蛍光物質はX線を出すものかどうかの一連の実験にとりかかった。
 ・・ベクレルさん44歳の時である。
 ここで、何故、ベクレルさんが、ポアンカレの説明を聞いて、蛍光物質とX線を関連づけて一連の実験に取りかかったかというと、その当時、ベクレルさんは燐光と蛍光に関する研究を行っており、関連する論文をいくつか発表していた時期であったからである。そして、燐光と蛍光に寄せる関心はベクレル家代々の伝統であり、研究テーマであった。
 ベクレル家は、アンリ・ベクレルの祖父から息子のジャン・ベクレルまでの四代にわたり、フランスでは著名な物理学者の家柄であった。時には三代が一緒に科学アカデミーのメンバーに名を連ねていたこともあったようである。祖父のアントワーヌ・セザール・ベクレルは、ナポレオンに仕え、ナポレオン戦争にも加わってており、フランスの科学技術院の要職についていた。後に、フランスの自然誌博物館の教授、館長になっている。そして、燐光に関する研究を行い、600編の論文、数冊におよぶ著書、教科書を書いている。ベクレル一族は四代にわたって博物館の教授、館長を歴任しており、「まさに同じ家、同じ庭、同じ研究室で、」で暮らしたのである。アンリ・ベクレルには、この様な伝統的な家柄、研究環境があったのである。
 さて、話を戻すと、ベクレルさんが、初めに行った実験は、これを否定する結果となった。すなわち、蛍光物質からX線は出ていなかったのである。次に、ベクレルさんはウラン塩を使って実験を再開した。ウラン塩は彼の父が研究していた物質である。 1986年2月末、科学アカデミの例会において、ベクレルさんは研究の成果を次の様に報告した。
 「写真乾板を黒い厚紙でくるみ、その上に燐光物質(ウラン塩)を置いて、1日中光にさらし、写真乾板を現像したところ、陰画に黒く燐光物質の影が写っているのが見えた」。
《やった、ベクレルさん放射能の発見である。》ところが、ベクレルさんは、燐光物質に光をあてたために、燐光物質から放射線が出たと思っていた節がある。そして、真の発見に近づくのが、なんとパリのお天気のせいだったのである。ベクレルさんは、その後も先に述べた様な実験を繰り返していたのであるが、ある日、天気が悪く太陽の光が十分ではなく、実験を中止しようと、「黒い厚紙でくるんだ写真乾板の上に燐光物質(ウラン塩)を置いたまま、実験室の引き出しの中にしまった。」
 そして、さらに、放射能の発見に貢献した幸運は数日続いた悪天候であった。数日後、ごく弱い像しかあるまいと思いながら現像したところ、予想にはずれ、大変強い影が得られた。この時に、ベクレルさんは、自分が何か大変重要なことを発見したことを悟ったのである。「ウラン塩は、前もって日光にさらしておくか否かに関係なく、黒い紙を透過する線を出している・・・」
 一般に放射能発見の最初の写真として、十字架の影が有名であるが、書によって異なり定かではない。その後、研究を続け、ウランから出る放射線は写真乾板を黒化させるだけではなく、気体をイオン化すること(電離)を発見し、放射能の強度を測定する方法の基礎を築いたのである。放射能の発見等の一連の功績に対し、発見より7年後の1903年にノーベル物理学賞を受賞した。 以上が、アンリ・ベクレルが放射能を発見した経緯である。
 レントゲンのX線発見といい、ベクレルの放射能の発見といい、発見は偶然によるものであるが、この偶然による知見を偉大な発見に導き出したところに、彼らの偉大さがある。つい、数年前より放射能の単位がキュリーからベクレル単位に変わった。放射能発見100周年にあたり、ベクレルさんの面目を保ったということが言えるかもしれない。ただ、扱うには数字が大き過ぎるが・・・ 2年後には、フランスのキュリー夫妻による、放射性元素発見の100周年を迎えることになる。
参考文献
X線からクオークまで(20世紀の物理学者):エミリオ・みすず書房
アイソトープ・放射線、発見から利用、歴史を築いた人々:アイソトープ協会



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