神奈核ニュース No.8(1998.6) 目次


第203回定例研究会(1998.4) 第3回教育訓練 講演記録集
核医学管理に携わって 横浜市立大学医学部附属病院野沢 武夫
ICRP90年勧告の国内制度取入れの医療現場への影響と
障害防止法に照らした放射線管理(核医学・治療)
横浜労災病院
  中央放射線部
渡辺 浩
医療放射線管理における医療法改正の動向 神奈川県立循環器呼吸器病センター
  放射線科
中村 豊
第202回定例研究会(1998.3)
IMP非侵襲的マイクロスフェア(NIMS)法による
  局所脳血流量の測定
日本メジフィジックス株式会社
  名古屋支店
渡辺 清貴
私のパソコン活用術(5)
私とマイコン
北里大学病院
  放射線部
太田 幸利
熱狂スタジアム(1)
国際的スタジアムへの幕開け
横浜労災病院渡邊 順一
お店紹介しようかい!(1)警友総合病院金谷 利久
編集部より
編集後記東海大学病院
  核医学
村上 剛


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第203回定例研究会(1998.4)
  第3回教育訓練
核医学管理に携わって

横浜市立大学医学部附属病院
野沢 武夫


小生は、憧れの地であった信州で社会人の初めの2年間働いた。しかし諸事情で去ることになり(追われた訳ではありませんので誤解なさらないでください)、現在の市立大学病院に勤務することになった。神奈川(イコ−ル横浜であるが)に4人目の同級生として来た。(県立癌センタ−に中村さん−現在循環器呼吸器病センタ−ともう1人女性の2人、国立横浜東病院に1人)。この4人の中で小生のみが「第一種放射線取扱主任者免許証」を有していなかった。
 このため彼らに追いつきたかったので、一念発起して受験をした。
 幸いにも合格することができた。核医学検査を担当するようになったのは、さらに約2年後からであった。
 当時の市立大学病院は、医学部に研究用RI使用施設がなかったために、核医学検査室は科学技術庁の使用許可も得て研究用核種も使用できたために大変に利用者の出入りが激しい所であった。
 小野先生(現県立癌センタ−部長)、氏家先輩(現市大放射線部次長)、朝倉先生(故人)の皆さんに放射線管理の仔細を教えて頂いた。小野先生が県立癌センタ−へ転出されました、このため当時の中央放射線部長より、主任者になるように言われたのが今日まで続く主任者としての始まりであった。前述したように研究施設も兼ねていたので、医局のアルバイト関係者(医師の研究助手的存在)も使用するのだが、この方たちに正しい使用方法をしてもらうには様々な事情から限界を感じた。新医学部施設内にRIセンタ−が開設されると、核医学検査室での研究用核種使用を中止としたことが主任者になって初めての大きな仕事であった。その後使用許可証に記載された以外のラジウムが発見されこれを廃棄処分するには大変苦労したが、この件で初めて科学技術庁に出向くこととなった。さらにその後許可条件の使用方法の一部変更に数回の事前相談に伺うも、書類の不備のために正式申請までに至らなかった。
 そんな中で新病院計画がどんどん進行して、放射線部門の担当者として新病院建設プロジェクトチ−ムの一員となり一年間実務を離れた。
 今度こそと万全に早めの申請を準備したが、書類提出が遅れたために、使用許可がでたのは新病院開院から一ヶ月半遅れてしまつた。
 これに関しては、いろいろ愚痴を並べたいが思わぬ所で迷惑がかかるといけないので止めておく。そんな中今度は、旧病院の廃棄手続きが待っていた。一度も使用したことの無い核種を何故いつまでも許可を得ていたのか、使用しなかった理由の説明の提出を求められた。当方の事務担当者が科学技術庁に出向き、何を求めているのかを把握して連絡をしてくれたので書類作成の手伝いのみで、自分自身がこの件出向くことはなかった。
 新病院の核医学検査室は、過去の反省から純粋な臨床に限定をするのが最善と考えられたが、これとてすんなり決まった訳ではなかった。一番重視した点は、検査室内への空気は高性能フィルタ−付加した方法で取入れ排気フィルタ−の寿命を少しでも長くすることで、長期的には経済的なシステムを作ることであった。また貯蔵室として整備しておくことで、将来的に科学技術庁の許可を必要とする核種を使用せざるを得なくなっても大丈夫なように計画した。
 この二点は新病院プロジェクトチ−ムに認められ実現した。
 ヒュ−マン−カウンターと言う全く一般的でない装置で測定した自分自身の人体スペクトラムから、自然放射性物質である40Kが人体内にも分布していることを示した。
 周期律表は質量数の小さい順に並んでいるが、この原則が3カ所で逆転しているところがあるが、これは同位体が存在するために生じていることを再確認の意味から示した。周期律表が人類にもたらした功績は、やみ雲に未知の元素を捜し求めるのではなく、ある元素の存在を推定させることができたことであった。99mTcもこのような武器を手にした人類の英知が見附だした。
 日常の検査を離れて地球を眺めると、地球内部熱源に自然放射性同位元素の崩壊熱が関与していること、大気は約10mの水槽に匹敵したバリヤ−として我々を宇宙線から防護していることを文献から提示した。
 現在小生の施設では、全身検査を単検出器カメラで2パス方式(視野が狭いため)で行っている。もしも検査ベット全体がシンチカメラなら前方向から検査をしている間に前後が終了するのにと考えたこともある。これは目の前にした問題の一解決方法であり、現実的な解決ではないことをに「気づく」ことになった。2検出器対向型の導入がすべて解決してくれる事です。その日が明日である事を願って終わりとする。



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第203回定例研究会(1998.4)
  第3回教育訓練
ICRP90年勧告の国内制度取入れの医療現場への影響と
 障害防止法に照らした放射線管理(核医学・治療)

横浜労災病院 中央放射線部
渡辺 浩






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第203回定例研究会(1998.4)
  第3回教育訓練
医療放射線管理における医療法改正の動向

神奈川県立循環器呼吸器病センター 放射線科
中村 豊


 医療における放射線の安全かつ有効な利用のためには適切な放射線管理が重要である。この件について、厚生省は「医療放射線管理の充実に関する検討会」を設置し検討を重ねてきた。この検討会より出された課題を具体的に医療法に取り入れるために「医療放射線安全管理検討会」を設置し、検討を始めている。
 この検討会で論議される検討課題は、放射線管理、放射線診療、放射線設備および装置に関係する多くの問題を含み、医療法施行規則の改正を目的としている。検討する課題は次の通りである。

1.在宅医療の推進
 在宅医療におけるX線撮影のための法令上の整理、またX線装置の安全な使用に関するガイドラインの作成などが討議される。
2.規制緩和の推進
 放射線障害防止法と医療法との二重規制を緩和し、医療法に統一するために必要な改正を行う。また診療用放射線器具や診療用放射性同位元素の翌年使用予定数量の届け出などの放射線管理の合理化などを検討する。
3.新しい医療技術への対応
 血管内照射器具や移動型高エネルギー放射線装置の使用、核医学検査用吸収補正線源などについて適切な放射線管理を行うために必要な医療法施行規則改正案を検討する。
4.放射線防護に関する国際動向への対応
 医療法におけるICRP1990年勧告の取り込み方針案を検討する。
5.放射線治療における放射線防護の最適化
 放射性医薬品を用いた放射線治療の行為基準や帰宅基準の作成、患者や家族に対するガイダンスの検討を行う。
 この検討会の委員は次の通りである。

<医療放射線安全検討会委員>
伊藤 國彦  (全日本病院協会監事)
菊池  透  (自治医科大学RIセンター管理主任)
草間 朋子  (大分県立看護科学大学学長、前東京大学放射線管理学助教授)
古賀 佑彦  (藤田保健衛生大学医学部教授)
佐々木武二  (東京医科歯科大学歯科放射線学教授)
佐々木康人  (放射線医学総合研究所所長)
鈴木 謙三  (全国自治体病院協議会放射線部副部会長)
中村  豊  (日本放射線技師会常務理事)
濱田 達二  (日本アイソトープ協会顧問)
兵頭 英昭  (日本歯科医師会常務理事)
藤井 恭一  (国立医療センター放射線診療部長)
宮坂 雄平  (日本医師会常務理事)
                 (アイウエオ順、敬称略)



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第202回定例研究会(1998.3)
IMP非侵襲的マイクロスフェア(NIMS)法による局所脳血流量の測定

日本メジフィジックス株式会社 名古屋支店
渡辺 清貴


1.はじめに
 IMPは真の血流に対しての脳組織への取り込みの直線性に優れており、また血中で安定なため動脈採血を行うことにより入力関数を推定できるため、局所脳血流量(rCBF)の測定に適しています。採血法としては、マイクロスフェア法(持続動脈採血法)やAutoradiography(ARG)法などが広く行われていますが、採血が必要なため実施できない施設もありました。非採血法としては、小脳比や対側比を用いる半定量法は相対値であり、Fractional uptake(FU)法はROIの取り方による術者間のバラツキや、身長・体重からの心拍出量(CO)推定等の問題点が指摘されていました。そこで、非採血法で術者再現性のよい方法として福井医科大学 米倉教授が考案されたのが、IMP非侵襲的マイクロスフェア(NIMS)法です。

2.NIMS法の概略
まずマイクロスフェア法の概略を図1にお示しします。
 これに対してNIMS法はマイクロスフェア法に基づいてはいますが、非採血で入力関数を求めrCBFを算出する方法です。IMPは投与後大部分が肺に取り込まれ、肺から洗い出されたトレーサがCOで全身に送り出されます。従って、全身への送り出し量とCOを求めることにより入力関数を推定することができます(図2)。
 送り出し量は、γカメラで測定した投与量に、3分間の肺のTACを5分まで外挿して求めた洗い出し率を乗ずることにより算出します。次に、肺動脈にbox ROIを描きTACを作りcurve fittingを行い、その面積から一回通過平均カウントを算出し、宮崎らのCOI法によりCOI(投与量/1cm2当りの一回通過平均カウント)を求め、他の方法によるCOとの相関式からCOに換算します。最終的にrCBFは次式により算出されます。
rCBF=Cb(SPECT)×CCF×{(B(before)+B(after))/2}×CO/Q×(1−L(5)/Lmax)
 ここで分子はSPECTカウントで分母はPlanarカウントであるため、較正係数CCFを乗じています。
 全処理画面を図3にお示しします。
3.まとめ
 NIMS法はマイクロスフェア法に基づいた方法ではありますが、入力関数を非採血で投与量,肺の洗い出し率,心拍出量から求め、IMPで簡便に局所脳血流量を算出する方法です。ROIの設定はシリンジ,肺動脈,肺,脳に行いますが、それぞれ全視野,平均カウント,洗い出し率,比率であり、術者間のバラツキの少ない方法です。また、マイクロスフェア法やARG法,PET等との相関も検討されており、よい相関が出ています。今後の課題として、肺の洗い出し率を過小評価する例,Diamox負荷例の入力関数推定等の問題点は残されてはいますが、NIMS法は集積型脳血流トレーサの中では最も虚血コントラストがよい言われているIMPを用いた非侵襲的な局所脳血流量測定法として期待されています。



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私のパソコン活用術(5)
  私とマイコン

北里大学病院 放射線部
太田 幸利


 私がマイコン(My Computer:もう死語かな)と出会ったのは、もう20年以上も昔になる。
 それまでは、コンピュータと言えば、大学の研究室・大会社の地下等にある大型コンピュータや事務所等で使う小型のオフィスコンピュータ(それでも事務机2個分ぐらいはあった)の事で、個人で自分専用のコンピュータを持つことなど、考えもつかない時代だった。
 その後、TVゲーム(テニスやホッケー等の、画面に縦や横の棒と四角い小さな点が動いている物)やゲームセンターの出現と同時期に、自分専用のコンピュータ、いわゆるマイコン(My Computer) が発売された。マイコンと言っても現在のようなTVモニタやKeyボードが付いている物ではなく、ワンボードマイコンと言う電卓の様な8の字が表示できるLEDが8個と16進のKeyやCPUチップとROMやRAMが1枚の基板上にならんでいるだけの物でケースもなく基板や電源がむき出しだった。友人のワンボードマイコンを見た時は、それが何なのか、何ができるのか分からなかった。
 私が最初に手に入れたマイコンは、その後に発売されたシャープのMZ-80Kである。TVモニタとKeyボードが付きBASICが標準で動く。初期型は、ケースを組み立て、Keyボードのスイッチを1個づつ半田付けするキットだった。昭和51年頃で20万円位だった。
 CPUはZ80(8bit)の2MHz、メモリは標準で20kbyte、フル実装時48kbyte、モニタは40×25白黒、表示文字はアルファベット大文字のみで小文字はなし、日本語はカタカナのみで、今のコンピュータやワープロの様な漢字やひらがなは入力も表示できず、もちろん印刷もできなかった。
 増設用のメモリは16kbyteで44,000円もしていた。今では考えられないような値段ですね。ちなみに、今は16Mbyteが3,000円で買えます。なんと15000倍ですね。
 フロッピーは5インチ128kbyteがオプション、ハードディスクなんてとんでもない時代で、データやプログラムはラジカセのテープに記録していた。
 当時としては、かなり高性能の部類だが、今のコンピュータはこの時代と比べると、CPU性能は5000倍、フロッピー容量は11倍、メモリ容量は700倍、ハードディスク容量は500倍に発展しているが、値段はあまり変わっていない。物価の上昇を考えるとむしろ半額ぐらいに思える。
 この高価なおもちゃで何をしていたのか。
 よく人に聞かれたことが「太田さんは、コンピュータで何をしてるの?」だった。その答えは決って「コンピュータでコンピュータしてる。」次の質問は出てこなかった。今の様なコンピュータが生活の中に溶け込み生活の道具として浸透している時代ではなかったので、この答えは日本語になっていなかったが、「コンピュータを使い、コンピュータの仕組みや可能性を探りながら遊んでいる。」と補足説明しても、なかなか理解してもらうのは難しかった。
 このコンピュータでは色々な事を学んだが、プログラミングはメインのBASICをはじめ、FORTRANやPASCAL、C言語に近いTL/1やGAME言語、WICSコンパイラ、より原始言語のアセンブラやマシン語など様々な言語でのプログラミングを楽しんだ。プログラムはπの近似式計算等の小さな物から、ゲームやデーターベース等の大きな物まで、48kbyteのメモリを最大限に駆使酷使して作った。
 πの近似式計算は、今のパソコンでは数10秒程度で終わる計算だが、当時、年末年始の休日で帰省時にスタートさせ、戻るまの1週間連続計算させて20000桁まで計算させた事もあった。それが何のためになるのか等は考えずに自分の命令で自分のコンピュータを動かしている事に満足している時代だった。
 ゲームも、オリジナルな物やオセロ・マージャン・チェス等、またインベーダーやエイリアン等のゲームセンター物の移植等も楽しんだ。
 ゲームは、アクション型ゲーム(インベーダー等)と思考型ゲーム(オセロ・チェス・碁・将棋・マージャン等)に分けられるが、前者は自分が敗北するまで続くので終了後はむなしさだけが残る事に気付き、それからは思考型ゲームを作った。
 自分の作った思考型ゲームは、自分で遊んでみてもプログラムの次の動きが分かるのでつまらない。プログラムしている時や、他の人に遊んでもらって、その人が喜んだり、くやしがったりして、夢中になってくれる事が楽しい。
 機械の性能とプログラムに限界を感じはじめ、改造もいろいろやった。もともと半田工作が好きだった事もあり、雑誌の記事や回路図(昔の機械は回路図も手に入った)をもとに音声の入力や出力が出来るように改造し、マシン語入力時の確認にメモリDATAをコンピュータ自身に読み上げさせたり、白黒表示だけでは満足できずに反転表示回路を追加したり、CPUのクロックアップをしたり、キャラクタROMを交換してひらがなや独自のキャラクタを作って表示したり等、いつの間にか基板上は改造のための配線がいっぱいになっていた。
 その後に、ポケコン(ポケットコンピュータ)と言われた小さなコンピュータ、シャープのPC-1500を手に入れ、16kbyteのメモリでセンシトメータの特性曲線や管理図を書かせた。
 次に手に入れたのは、NECの初代PC-9801だった。CPUは8086(16bit)で5MHz、メモリは標準128kbyte、画面がカラー表示(といってもまだ8色だった)で当時では最速のパソコンだった。これにメモリを256kbyte増設し、FDDは8インチ×2と5インチ×2で、日本語BASICやCP/Mを経て最後はMS-DOSで一太郎やマルチプラン、それにゲームを動かして遊んでいた。この頃には、もうBASICでプログラムを作らなくても、充分実用になるアプリケーションが市販される様になり、段々プログラミングの時間が少なくなってきたが、この頃はコピープロテクトに興味をもち、プロテクト解析を楽しんでいた。
 その次に手に入れたのは、EPSONのPC-386Mだ。この頃にはハードディスクも普及し安く買える様になった。CPUは80386(32bit)で16MHz、メモリは640kbyte、後に4Mbyte増設した。HDDは90Mbyte、後に250Mbyteに増設した。この機械は、またまた改造虫が活動を始め、CPUをcx486SLC(32bit)に載せ換え、クロックは24MHzまで持ち上げて動かしていた。この頃からパソコン通信を始める様になり、改造マシンでは動作不安定で、最終的にはクロックを20MHzで動かしていた。これは、今も動いている。
 その後はWindowsやMacの時代となり、秋葉原でも国産マシンに変わりDOS/Vマシンをよく見かける様になってきた。WindowsのExcelを動かす必要が出てきたが、自分のコンピュータでは、Windowsが走らないため、DOS/Vマシンを手に入れる事となった。
 まず手に入れたのは、486SXの25MHzのマシンでWin3.1を動かした。その後CPUを載せ替えクロックアップし、486DX2の66MHzでしばらく使っていたが、Win95の時代になり、これでも遅くなったのでメインボードとCPUの交換となった。AMD5x86の133MHzに換えて、メモリも48Mbyte載せ、ケースも少し大きい物に換えた。これが今の私のメインマシン(3号)として、インターネット・Word・Excel等に使っている。
 サブマシン(2号)は、交換して余ったケースや基板等の寄せ集めで組み上げたペンティアム100MHzのWin95マシン、サブサブ(1号)は前出のPC-386M改のMS-DOS、おまけマシン(4号)はIBMの386SX/25MHzのWin3.1、さらにおまけは486/16や386/12やV30/10の98ノート数台(5号から9号)が部屋の中に転がっている。
 古い機械がゴロゴロしている様に思われるかも知れないが、全ての機械で、それぞれ役割を持つプログラムが、それぞれのDOSやOS上で、全て現役で動いている。結局、メインマシンの3号に電源が入っている時間より、1号や4号に電源が入っている時間の方が長い。
 今後はこれだけあるコンピュータをLANでつないで、家の各部屋から動かしたいと思っている。



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熱狂スタジアム(1)
 国際的スタジアムへの幕開け
  −横浜国際総合競技場−

横浜労災病院
渡邊 順一


 平成10年3月1日、ついにそのベールを脱ぐ時が来た。その名も『横浜国際総合競技場』。そのこけら落としとして、第4回AFCダイナスティカップ98 日本対韓国の試合が行われた。当日は、みぞれ混じりの雪が降っていたため、収容人員7万336人という国内最大のスタジアムのこけら落としにもかかわらず、観客は5万9380人に止まった。

 試合開始30分前にスタジアム入り。スタンドは、一部を除いて日本のサポータ青一色。既にサポータからは"ニッポン!ニッポン!"の大合唱。観客席の3分の2を屋根で覆っているためか、地鳴りのように鳴り響いている。一瞬鳥肌が立つような緊張感、しかしそれも束の間、緊張が興奮へとかわり胸の高鳴りをおぼえる。ついに待ちに待った時が始まろうとしている。世界にひけをとらないスタジアムのそして日本の歴史的1ページの始まりである。ホィッスルが鳴り響く。日本の選手の一蹴一蹴にサポータからの声。時には攻撃を後押しする声援、ナイスプレーへの賞賛、時にはパスミスへのため息・・・。前半を1対1で終えるも終了間際の89分城のヘディングシュート。これで勝ち越し、誰もが日本の勝利を確信したにちがいない。城への賞賛のコールが鳴り響くそしてホィッスル。何とも言えない気持ちに酔いしれる。

 スタジアムのこけら落とし、そして日本の勝利をこの場であじわえた事を嬉しく思うとともに誇りに思う。  試合観戦から2週間後にフィールドに立つ機会があった。試合当日2階からその大きさ、広さはわかっていたが、実際にフィールドに立つと圧迫感さえおぼえる。7万人収容そして設備どれをとっても世界にひけをとらない。しかもスポーツ医学へのバックアップ体制も整っている。

 今後も、皆に夢と希望を、そして2002年ワールドカップ日韓大会では世界の華麗なテクニックをみせてほしい。欲を言えば、決勝戦はこのスタジアムで、そしてフィールドには日本の選手が立ってほしい。



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お店紹介しようかい!(1)
警友総合病院
金谷 利久


 「職場近くのグルメスッポット」確かこのようなテ−マで編集の村上氏より原稿の依頼があったのだが、けいゆう病院付近(みなとみらい地区)は雑誌、テレビでよく紹介されているので、私の地元(結婚する迄)を紹介いたします。

胡海亭
 横須賀市秋谷5290-1 火休 0468-56-1117
 晴れた日は海側のテラスから伊豆半島や富士山を見ることができます。海岸に面したカレ−の専門店です。10種類位あるカレ−のなかでお奨めはチ−ズオムレツカレ−です。
  チ−ズオムレツカレ− 1300円
  デラックスシ−フ−ドカレ− 1800円

ラ・プラ−ジュ
 葉山町堀内998 月休 0468-75-4935
 森戸海岸を見ながら食事のできるお店です。(特に夕方、日が落ちる時がきれいです)単品メニュ−はその日に揚がった魚で作るシ−フ−ドメニュ−がお奨めです。
  ランチコース 3000,5000円
  ディナーコース 4000,6000,8000円

鴫立亭
 葉山町一色1964 0468-76-1682
 御用邸近くの英国風洋館、そこでティータイムはどうですか?
 店内も外見どおりの雰囲気でゆったりとしたレイアウトなのでくつろげます。ケ−キのテイクアウトもできます。
  各ケ−キ     350〜450円

かねき鮨
 横須賀市佐島865-1 火・第4水休 0468-56-0994
 国道134号より少し外れた場所にあります。目の前に佐島市場が有りネタは新鮮です。地の魚を扱っていますので店の人にお奨めを聞いてみて下さい。季節限定ですが、生しらす丼がある時は是非ためしてみて下さい。
  上にぎり・ちらし 各2000円
  ランチ(おまかせ寿司) 900円



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編集部より



 神奈核の常任幹事が新しくなりました(幹事・監査・顧問に大きな変更はありません)。詳しい紹介は、別の機会にしたいと思いますが、簡単に紹介しておきます。今後とも、宜しくお願い致します。

代表幹事  渡辺 浩  (横浜労災病院)
常任幹事  村上 剛  (東海大学病院)
      菊池 敬  (北里大学病院)
      金谷 利久  (けいゆう病院)
      佐々木俊光  (県立がんセンター)    新任
      工藤 博子  (横浜市立港湾病院)    新任
      小野 欽也  (川崎市立川崎病院)    新任
      荒田 光俊  (横浜栄共済病院)     新任

 本号(No.8)から、2つの新しいコーナーがスタートしました。
 「熱狂スタジアム」は、好みのチームの応援記、好みのスポーツの見所などスポーツ観戦を中心とした雑感を紹介していただく企画です。スポーツに関連することだけでなく"観る"ことや"見る"ことであれば何でもOKです。
 「お店紹介しようかい!」では、病院や自宅の近くにあるおすすめのお店をシリーズで紹介していただきます。おいしい食べ物の店が中心になりそうですが、おすすめの店であれば、何でも扱います。
 これらのコーナーに、ぜひ、楽しい原稿をご投稿下さい。お待ちしております。



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編集後記
東海大学病院 核医学
村上 剛


 2つの新しいコーナーをよろしくお願いします。本号の前半は堅い文章が続きますが、後半は柔らかい文章ばかりです。普通の新聞と同じように、後ろの方のページから読んでいく人が多いのではないでしょうか。楽しく読んでいただくのも大切なことだと思います。これからも出来るだけ柔らかい内容を増やしていきたいと考えております。おもしろい企画があればお知らせ下さい。とは言いましても、神奈核Newsから仕事に役立つ情報や知識も少しぐらいは吸収していただければと思っています。
 サッカー日本代表がフランス入りしました(本日6月5日)。いよいよワールドカップが始まります。ウキウキ、ドキドキして今から夜も眠れません。何とか1勝を、何とか決勝トーナメント進出をと神にも祈る思いです。
 ところで、先日の横浜でのキリンカップ、パラグアイ戦を観戦し、すばらしい応援を目の当たりにしてきました。フランスにはいけませんが、テレビの前でスタジアムに負けないぐらいの応援をしたいと思います。このNewsが発刊される頃には、すでに2戦が終わっていますが、この文章を読んで、むなしい気分にならないことを祈っています。
 ワールドカップ中は睡眠不足になりがちだとは思いますが、皆様お体に気をつけ、くれぐれも仕事中に居眠りなどしないように、気合いを入れてワールドカップ期間を乗り越えましょう。
 ご投稿・ご要望・お叱り・ご感想等は、下記まで、または、お近くの研究会幹事までお願いします。

259-11 伊勢原市望星台 東海大学病院 核医学 村上 剛
TEL:0463-93-1121(内3471) FAX:0463-91-1350
インターネットメールアドレス:mura@is.icc.u-tokai.ac.jp

 神奈川核医学研究会第200回記念大会がやっと終わったと思ったら、もうすぐ今年が終わろうとしています。つい先日までは、神奈川核医学研究会誌のNo.11の編集に大忙しでしたが、楽をする暇もなく、神奈核News No.6の発刊作業を行っています。
 神奈核ニュースは皆様の原稿がなければ発刊できません。ぜひともご協力のほどお願い致します。学術だけでなく、いろいろな内容の盛りだくさんにしたいと思います。特集の内容についての要望や、連載希望のコーナーがありましたらぜひご一報下さい。
 ところで、サッカー日本代表が、Wcapフランス大会への出場をやっと手に入れました。これで、来年の6月までは何となくウキウキした気分で過ごせそうです。ぜひとも、フランスで青いビニール袋を振りたいと、思いをはせています。
 私は、ここ1週間ほど風邪で、ゴホゴホ・グジュグジュ言っています。皆様もお体をおいたわり、良いお年をお迎えください。

 投稿・ご要望・お叱り・ご感想等は、下記まで、または、お近くの研究会常任幹事までお願いします。
259-11 伊勢原市望星台 東海大学病院 核医学 村上 剛
TEL:0463-93-1121(内3471) FAX:0463-91-1350
インターネットメールアドレス:mura@is.icc.u-tokai.ac.jp



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